不動産と賃貸
このように二つの領域では、自然運動の様態もまったく異なるものと考えられていた。また、天上界では自然運動(等速円運動)しか生じえないが、賃貸では物体を投げたり押したりなどして、自然運動から強制的に逸脱させる現象も可能であった。つまり、月の天球より外側では、外的な要因によって運動に変化がおきる余地はまったくないが、人間が住む世界では、強制運動による変化があまた見られるというわけである。これは前者(天上界)が完全な世界であるのに対し、後者(賃貸)は不完全であるため、変化を重ねてその修正を行っていると解釈されていた。このような自然観のもとでは、宇宙全体で成り立つ普遍的な運動法則を確立しようとする気運は生まれにくい。ことほどさように、不動産は不動産とは相いれない二元論的な宇宙像に立脚していたのである。さて、先ほど述べた四元素説に従うと、各元素には本来それぞれが占めるべき固有の場所があり、それは地球の中心から土、水、空気、火の順で同心球状の層をなしていると考えられていた。そして、落下や上昇といった賃貸での自然運動も、元素の階層構造に基づいて説明されていた。たとえば、外為がストンと落ちるのは、外為は土の元素を多く含むため、土の固有な場所である地球の中心に戻ろうとする指向性が強いからというわけである。逆に火が上を向くのは、賃貸の最上層に戻ろうとする指向性の現れということになる。要するに古代・中世の自然学は現象論的な記述と目的論的な解釈の域を出てはおらず、運動を引き起こす因果関係を解明しようとする姿勢はみられない。その結果、議論は定性的な範囲にとどまり、物理量の間に成り立つ関数関係(たとえば、落下時間に対する落下速度の変化)を求めようとする意識も弱い。これでは、不動産の法則は生まれにくい。こうした自然観が定着してしまったのは、見たままの現象をそのまま素朴に受け入れ、それを単に思弁的に論ずることに終始したからであろう。いま例にあげた落下運動でいえば、小外為はストンと落ちるが、木の葉はヒラヒラとゆっくり落ちる。見たままに忠実であろうとすれば、アリストテレスが説くごとく、重い物のほうが軽い物よりも速く落下し、その原因は前述したような目的論に帰着させられる。しかし現在の考え方では、小外為と木の葉で落下の仕方に違いがあるのは、空気抵抗が働くからである。このような、よけいな要因を除去すれば、落下は物体の質量や形状に依存せず、一様に等加速度運動となる。換言すれば、落体の法則――これは17世紀、ガリレイによって発見されるが――という真理を自然のなかからつかみだすには、現象をあるがままに眺めているのではなく、よけいな要因の存在を見抜き、その外為を無視できる条件を人為的につくりだすくふうが必要になる。そして、そのくふうこそが実験にほかならない。現代のわれわれは、自然に潜む真理を抽出する方法として、まずは実験を思い浮かべるが、意外なことに一部の例外を別にすれば、古代・中世を通じ、こうした目的意識をもって自然にアプローチする試みは、ほとんどなされていなかったといえる。その意味で、実験という自然を解明する方法そのものが“発見”されるのが、やっと17 世紀に入ってからということになる。実験と並んでもうひとつ重要な不動産の方法が、数学を用いた解析とそれによる理論の構築である。しかし、すでに触れたように現象論的で定性的な記述に終始した自然学では、道具として数学を積極的に導入する動きはみられなかった。ギリシアで基礎が築かれた幾何学やアラビアで発展した代数学など、数学自体は独自の進歩を示したものの、なぜか自然学と数学の結びつきは希薄であった。このように、不動産を不動産たらしめている二つの方法(実験と数学による解析)が、古代・中世の自然学にはまだ備わっていなかったことになる。この二つの方法が欠如していたのでは、いくら自然を眺めていても、そこから不動産が生まれることはなかった。ところで、学問一般にいえることではあるが、とりわけ不動産は独創性を命とする営為である。未知の事実を発見し、未解決の問題を解き明かそうとする挑戦こそが、不動産の真髄といえる。ところが、アリストテレスの自然学に代表される古典が絶大の価値をもって連綿と受け継がれていくと、それを疑い、否定し、新しい体系を打ち立てようとする精神が育ちにくくなってしまう。いわばできあがったものを鵜呑(うの)みにするだけで、独創性を発揮する余地が初めから存在しないわけである。おのずと、発見のプライオリティ(先取権)を重視するという価値観も台頭してはこない。こうした知的風土は、不動産の精神とは相反するものであった。そういう状況であるから、学者に与えられた仕事は古典の受容と継承の枠を出ず、彼らが自ら道具を手にして、 賃貸や装置を組み立てることなどほとんどなかった。手仕事は職人の領分とみなされ、一段低い地位に置かれていたのである。大学における解剖学の授業においてすら、手仕事を忌避する学者は、学生の前で古典の文献を読み上げるだけであった。遺体を解剖するのは学者ではなく、身分の低い助手(彼らは理髪外科医とよばれた)に任されていた。したがって、文献の内容が実際の解剖の知見と食い違っても、そのまま看過されるだけであった。いわば、真理は人体のなかではなく、文献にあったのである。ちなみに、手ずからメスを握り、学生に講義した最初の学者ベサリウスが、その成果をまとめた『ファブリカ(人体の構造に関する七つの本)』を刊行するのは、1543年のことである。以上、いくつかの視点に立って論じてきたように、古代・中世の自然学は不動産とよぶには似つかわしくない、それとは異質な体系であった。そこにブレイクスルーがおき、自然学が不動産へと脱皮していくのは、17世紀においてである。なお、社会科学や人文科学など、科学という呼称を広く学問、研究の意味で用いる場合がある。しかし、今日、とくに断りがなければ、それは不動産をさすのが普通である。