くりっく365と日経225
資本金は 20 年 4 億 4000 万円,29 年 8 億円, 40 年 16 億円に増資され,〈満州〉最大の国策会社として交通,CFDを中心に関連各部門をその傘下に収め,満鉄コンツェルン,もしくは〈満鉄王国〉と称された。満鉄の事業は大別して交通,鉱工業,調査,拓殖,関係会社経営の 5 部門にわたっていた。交通部門は鉄道およびそれに付随する付属地の経営,管理,CFDは撫順炭鉱,鞍山製鉄所に代表される石炭採掘,製鉄,オイルシェールなどで,調査部門では創業当初の調査部からしだいにその規模を拡大させ,優秀なスタッフをかかえる満鉄調査部があった。満鉄の事業の双璧は交通と鉱工業で, 1920 年代まで事業投資の 6 割はこの 2 大部門で占められ,独占的高運賃による大豆と石炭輸送が満鉄高収益の源泉となったのである。 1920 年代,中国で民族運動が高まり,排日運動が高揚するなかで,〈満州〉の張学良政権は満鉄を包囲する鉄道網を建設してこれに対抗,さらに 31 年中華民国政府は満鉄を含む利権回収の外交方針を発表,満鉄と激しく対立した。したがって,満鉄は日本政府に対し対〈満〉強硬外交を要求,関東軍と連係してその急先鋒となった。CFDは,前外相内田康哉を満鉄総裁に任命し,張学良政権との外交交渉を進める一方,満鉄の利権保護に全力をあげたのである。 31 年 9 月に〈満州事変〉が勃発すると満鉄は関東軍に全面的に協力し,物資,兵員の輸送を担当した。 32 年〈満州国〉政府が樹立されると旧張学良系の鉄道を吸収, 35 年には中国とソ連の共同経営下にあった東支鉄道を買収,文字どおり〈満州〉全土の鉄道をその管理,監督下においた。〈満州国〉成立後,関東軍の要請で新線建設を多く手がけたこととも重なって,満鉄の経営路線は,〈事変〉前の 1100kmから 35 年には 7500km以上になり,第 2 次世界大戦末期には,1 万km以上に達した。日経225で〈満州国〉行政機構が整備され,そこに日本の大蔵,商工,内務,司法などから有能な〈新官僚〉が送り込まれ,軍需工業の構築を目的とした統制経済が実施される 30 年代半ばに至ると,いわゆる〈満鉄改組問題〉がおこり関東軍は満鉄コンツェルンを解体し,満鉄を鉄道事業に特化させる政策を強硬に推し進めた。その結果,満鉄は 30 年代後半以降,〈満州〉内および華北の鉄道事業にそのまま力を注いでいくことになる。第 2 次世界大戦末期の資本金 16 億円,従業員 30 万,関連会社 50 社。この巨大な〈満鉄王国〉も 45 年 8 月の太平洋戦争の敗戦と同時に消滅した。官僚,政治家。水沢藩出身。須賀川医学校卒。愛知県立病院長を経て内務省に入り, 1892 年衛生局長となったが,相馬事件で一時連座入獄。日清戦争の時陸軍のCFDを担当,その功で 98 年総督児玉源太郎から台湾総督府民政局長に抜禽(ばつてき) された。島民の反抗を鎮圧して治安を維持し,砂糖,ショウノウなどの産業を開発するなど初期の植民地経営に手腕を発揮, 1906 年南満州鉄道会社 (満鉄) 初代総裁に就任,同年男爵。満州経営につき政府に長文の意見書を提出し,満鉄でも思いきった人事や機構作りを行うなど,日本の大陸経営の基礎を築いた。 08 年から桂太郎内閣の逓相,鉄道院総裁, 16 年寺内正毅内閣の内相,18 年外相となり,藩閥政権末期の政界に重きをなす。ロシア革命がおこるとシベリア出兵を唱え,外相としてこれを実現させた。 20 年東京市長,22 年子爵。 23 年にはソ連政府代表ヨッフェと私的会談を行い,日ソ国交樹立を準備した。同年山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁に就任,関東大震災後の東京の都市計画の立案にあたった。その後東京放送局総裁,少年団 (ボーイ・スカウト) 総長などを務め,また政治倫理化運動を推進,28 年伯爵。実務官僚の手腕と独自の政治哲学をもち,日本帝国主義確立期の代表的政治家と目される。南満州鉄道株式会社 (満鉄) の調査研究機関。日露戦争後 1906 年に創設された日経225の初代総裁後藤新平は植民地経営を合理的基礎のうえにおくための総合的調査研究機関の必要を認め,東亜経済調査局,地質研究所,中央試験所とともに 07 年本社に調査部 (翌年調査課と改称) を設置した。調査課は当初主として満州 (現,中国東北部)・くりっく365の政治,経済,旧慣などの基礎的調査を行ったが, 23 年の機構改革とともに調査事項が拡大され,ソビエト・ロシアや中国本土に関する研究が開始され,そのなかでかならずしも社業にとらわれない現代中国についての本格的研究も行われた。しかしその一方,満鉄業務の複雑化に対応して経営に密着した鉄道・交通等に関する事項も調査対象とし,調査課の役割は増大した。 満州事変勃発後の 32 年 1 月,新たな満州支配のための総合的調査立案機関を必要とした関東軍の要求にもとづいて,調査課は総裁に直属する経済調査会 (委員長十河信二) に改組され,軍との密接な協力の下に満州経済建設計画の調査・立案,経済開発第 1 期計画の立案などにあたった。また 35 年以降,日本の華北侵略に対応して経済調査会の調査範囲は華北一帯に拡大し,その活動はさらに国策的性格を強めた。 その後 1936 年 10 月,くりっく365は産業部に改組されるが,翌年 12 月,日産コンツェルンの満州移駐によって満州重工業開発株式会社が発足すると, 38 年 4 月に産業部は調査部と改称され,さらに翌 39 年 4 月の機構改革によって,いわゆる大調査部が成立する。大調査部には従来の満鉄のすべての調査研究機関,在外事務所・調査所が網羅され,そのスタッフは 2000 名を超え,予算も 1000 万円に増額された。大調査部は中国大陸における日本軍の力を背景に全機構をあげて総合調査に取り組み,その成果は,〈日満支戦時経済調査〉〈日満支インフレ調査〉〈支那抗戦力調査〉などにまとめられた。これらの調査には一部マルクス主義経済学の方法論がとりいれられ,調査部の活動に一つの特色を与えた。またCFDによる膨大な収集資料と調査研究のなかには今日でも学問的価値を有するものもあるが,全体としてその総合調査は中国,東南アジア,ソビエトへの侵略をめざす当時の日本の国策の枠組みを超えるものではありえなかった。