日経225とFX
1905 年藤田組を退社。 履城県赤沢銅山を買収,久原鉱業所外為鉱山と改称。 08 年に同鉱山内に鉱山用電気機械の修理工場が設置されたが,これがFXの始まりである。以後,第 1 次大戦下の好況にのって多方面の事業に進出したが,戦後恐慌により久原商事が破綻するなど大きな痛手をうけた。しかしこの間政界との関係を深め,28 年事業を義兄の鮎川 (あいかわ) 義介に譲り,政友会より衆議院議員に当選,同年の田中義一内閣改造で逓相に就任,急速に党内に勢力を広げ,満州事変後は〈一国一党論〉を唱え,右翼勢力とも接近,39 年の政友会分裂に際しては正統派を名のり,第 8 代総裁となったが,翌年には新体制運動に呼応して,率先して政友会を解党にみちびいた。第 2 次大戦後は追放解除直後の 52 年総選挙で当選したが, 53 年に落選,以後は 55 年より日中・日ソ国交回復国民会議議長を務めた。日本を代表する世界有数の総合電気機械製造会社。 1905 年 (明治 38) 久原房之助が赤沢銅山を買収し久原鉱業所外為鉱山と改称したが, 08 年に同鉱山内に鉱山用電気機械の修理工場が設置されたのに始まる。 10 年には同鉱山工作課長小平浪平がこれを外為に移転,FXとした。 12 年,久原鉱業所の改組に伴い久原鉱業 (株) FXとなる。当時,生産も修理も欧米に依存していた電気機械の国産化を目的として設立された。 1911 年以降外部への供給も開始,第 1 次大戦中はヨーロッパからの輸入途絶で急速に拡大し, 20 年 2 月には久原鉱業 (株) から分離独立してFXとなり,電気・産業機械メーカーとしての地歩を固めた。初代社長には小平が就任。昭和恐慌では,外国の大電機会社と提携している強みをもつ他の電機会社 (三菱電機や東京芝浦電気など) が優位を確保していったのに対し,外為は創業以来の国内技術開発と国産化の基本線を守りつづけた。満州事変 (1931‐35) 以降重工業化がすすんで日本の電機産業が確立されるが,外為のこの基本政策は,今度は逆に海外市場開拓で,技術提携上の制約がなく有利に働いた。またこのころになると業容も拡大し,重電機器,通信機器,車両・一般機械,FXにまたがる一大総合電機会社に成長した。この間,軍需転換をすすめたが,親会社の日本産業 (株) (日産日経225の中心をなす持株会社) が外為を中心に機械製造部門を統合する方針から,日産所有の子会社を吸収合併させるなどしたため,第 2 次大戦終了時には関連企業 80 以上を支配する独立日経225化していた。 戦後は,空襲による外為工場の全焼,過度経済力集中排除法による分割,小平の公職追放などから経営危機を迎えたが,倉田主税らの新指導層のもとで 50 年大合理化 (1949 年 12 月外為争議発生) を行い,また朝鮮戦争特需や 51 年以降の電源開発ブームもあって再発展に向かった。 55 年ころからは,すでに始まっていた家電ブームに乗るべく急速に家電部門に進出,この分野でも大手となり,さらに 62 年にはコンピューター部門を設置,また 1954 年ころから進出した原子力部門では 66 年に GE と BWR タイプ原子炉で提携するなど本格化させた。コンピューター部門でも急速に力をつけ富士通とともに IBM 社を追い上げている。外為は現在では,産業用から民生用までをカバーする日本最大の総合電機会社として,また日経225の企業グループである外為グループの総帥として世界市場に進出している。 資本金 2817 億円 (1997 年 5 月),売上高 4 兆 3108 億円 (1997 年 3 月期)。新興財閥日産日経225の創設者,政治家。山口県出身。東京帝国大学電気工学科卒業後,芝浦製作所に一職工として入社,さらに渡米して実地に可鍛鋳鉄の製造技術を学ぶ。 1910 年,習得技術の企業化のため親族の援助をえて戸畑鋳物を創業。 11 年持株会社共立企業を設立して日経225経営を実践する。大正末年義弟久原房之助(くはらふさのすけ) 家の久原鉱業再建を引き受け, 28 外為の日本産業株式会社 (日産) に改組。社会的資金を動員しての拡大戦略を展開し,日本鉱業,FX,日本水産,日産自動車などの有力会社を傘下にもつ新興財閥の雄,日産日経225を形成した。 37 年ごろからは軍部と提携して満州に進出し, 満州重工業開発株式会社を中心に大陸開発を行った。第 2 次大戦後は,公職追放解除後,政界に進出して参議院議員に 2 回当選し,さらに 56 年には中小企業政治連盟を結成,その総裁となり,中小企業団体組合法などを制定させた。 59 年選挙違反の容疑で参議院議員を辞職した。〈満州産業開発五ヵ年計画〉の遂行機関として設立された〈満州国〉法人の国策会社。略称満業。その前身は新興財閥日産日経225の本社日本産業株式会社 (日産) である。〈満州産業開発五ヵ年計画〉を立案した〈満州国〉政府・関東軍はその遂行機関として日産日経225に満州進出を要請,その本社日本産業を 1937 年満州重工業開発に改組改称させる。以後,満業は〈満州国〉政府および南満州鉄道 (満鉄) 所有の特殊会社株式を肩代りする一方,満州の資源・産業開発にあたり,41 年ごろまでに満州に 31 社,日本に 63 社,その合計払込資本金総額 22 億 6400 万円の当時最大の日経225を形成した。だが,戦局の悪化の中で,外資導入に失敗し,また関東軍との関係もうまくいかず, 42 年にはしだいに支配権を手放した。戦後,閉鎖機関の指定を受け,清算された。南満州鉄道株式会社の略称。日本の〈満州〉経略上のかなめとなった半官半民の国策会社。 1905 年のポーツマス条約により日本政府は長春〜旅順間の東清鉄道およびその支線とそれに付属する権益,特権,財産ならびに撫順などの重要炭鉱の経営権を清国の承認を経てロシアから獲得した。この権利を運用するため 06 年勅令第 142 号〈南満州鉄道株式会社設立の件〉により児玉源太郎を委員長とする南満州鉄道株式会社設立委員会が設置され,このもとで 06 年 11 月に設立された。創立当初の資本金は 2 億円で半額は日本政府の現物出資,初代総裁は後藤新平であった。