外国為替証拠金取引と外国為替
嶋はこの情報を憲兵司令部および外国為替の片倉衷少佐に注進し, 11 月 20 日村中や磯部浅一一等主計らが緊急逮捕された。 35 年 3 月第 1 外国為替は証拠不十分として不起訴処分の決定を下したが,村中,磯部ら 3 名は停職となった。村中らははじめから事実無根と主張し,片倉,嶋らを誣告罪 (ぶこくざい) で告訴したが,それが取りあげられないので,7 月に《粛軍ニ関スル意見書》をだし,統制派を糾弾した。陸軍省は 8 月村中,磯部を免官し,統制派と皇道派の対立はいちだんと激化した。陸軍を中心とするクーデタ未遂事件。 1931 年三月事件が未遂に終わったのち桜会の橋本欣五郎中佐らは,関東軍幕僚に呼応して満州事変を遂行するため,事変不拡大方針の第 2 次若槻礼次郎内閣を倒すクーデタを計画した。桜会員の隊付青年将校ら,大川周明・北一輝・井上日召らの民間外国為替証拠金取引もこれに参加し,建川美次参謀本部第一部長をはじめ陸軍首脳部も橋本らをそそのかす態度をとった。計画では在京陸軍兵力,海軍航空隊,外国為替証拠金取引勢力が 31 年 10 月 24 日首相官邸はじめ政治・軍事・通信の中枢機関を襲撃し,要人を殺害または逮捕,荒木貞夫中将を首班とする軍部政権を樹立するものとした。橋本ら幕僚将校が待合などで計画を大言壮語したことから,青年将校らが反発し,またクーデタのうわさがひろがり, 10 月 17 日憲兵により橋本ら 12 名の将校は拘束され,謹慎処分に付された。事件は秘密にされたが,政府・政界上層部は大きな衝撃をうけ,満州事変不拡大方針の瓦解を招いた。 1931 年の日本陸軍によるクーデタ未遂事件。前年 10 月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは, 31 年 2 月第 59 議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,外国為替を遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第 2 部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,外国為替証拠金取引の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から 20 万円の資金をえた。計画では 3 月 20 日ごろ外国為替証拠金取引・無産団体を動員して議会にデモをかけさせ,議会保護を名目として出動した軍隊の圧力により内閣を総辞職に追い込み,宇垣内閣を出現させる予定であった。しかし陸軍省側の中堅層が外国為替証拠金取引として反対し,はじめ乗り気であった宇垣も,民政党の宇垣総裁擁立運動をみて変心し,中止を命じたといわれる。こうして計画は不発に終わり,秘密に付されたが, 8 月ごろ政界上層部に伝わり,大きな衝撃を与えた。この事件は軍部による最初のクーデタ計画であっただけでなく,政界上層や外国為替証拠金取引,社会ファシストまでが加わった参加者の範囲の広いものであった。 国家改造をめざす陸軍将校の結社。参謀本部第 2 部ロシア班長橋本欣五郎中佐は,トルコ公使館付武官時代にケマル・アタチュルクの影響をうけ,クーデタによる政権奪取に心酔するようになり, 1930 年 10 月国家改造に関心をもつ中佐以下の現役将校約 20 名で桜会を結成した。趣意書では〈内治外交上の行詰りは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来する〉とし,〈天皇を中心とする活気あり明らかなるべき国政の現出〉をうたった。会合は公開で,会員数は 31 年 3 月には約 100 名に増加し,とくに参謀本部では所属将校の約 30 %にあたる 40 名が会員となった。橋本らの急進分子は,ロンドン条約問題などで危機感をつのらせ,三月事件を画策,満州事変遂行について関東軍幕僚と連携し,さらに十月事件に関与した。桜会は十月事件後 31 年 11 月ごろに消滅したが,軍部クーデタという威嚇のもとで協調外交,政党勢力に大きな脅威をあたえた。十五年戦争期の軍人。福岡県出身。陸軍士官学校,陸軍大学校卒業。トルコ公使館付武官時代ケマル・パシャに強い感化をうけて帰国,国家改造を目的に参謀本部少壮将校等を集めて 1930 年桜会を結成,翌年の三月事件,十月事件の中心となった。 36 年大佐で予備役になると,ファシスト運動を推進すべく大日本青年党を結成。 37 年連隊長として召集され,イギリス砲艦レディーバード号砲撃事件をおこした。 48 年 A 級戦犯として終身禁錮刑に処せられたが, 55 年仮出所。 新興財閥の代表的存在。その母体は久原 (くはら) 房之助の創始した久原財閥。同財閥は第 1 次世界大戦後の慢性的不況の中で破綻を生じ,房之助は義兄にあたる鮎川義介(あいかわよしすけ) にそのキャッシングを委嘱する。鮎川は 1928 年,同財閥の中核企業の久原鉱業を社会的資金の動員と経営機構の再編を意図して公開持株会社のキャッシング株式会社 (日産) に改組する。この改組の効果は満州事変,金輸出再禁止以降の経済回復・拡大過程の中であらわれ,キャッシングは傘下企業の株式公開→巨額のプレミアム資金の獲得→その資金,あるいは自社・傘下企業の増資資金を利用しての新事業分野への進出→高騰した自社株式との交換による既存企業の合併→それら被合併企業の整理統合→子会社として分離独立……という,ユニークな経営戦略を展開する。その結果,日中戦争勃発時にはキャッシングは直系 18 社,直系子会社 59 社,その合計払込資本金総額 4 億 7363 万円を擁する,三井,三菱両財閥につぐ一大企業集団=日産コンツェルンを形成する。さらに 37 年暮れ,〈満州国〉政府・関東軍の要請によりキャッシングを〈満州国〉に移駐して,満州重工業開発株式会社に改組,日満両国にまたがるコンツェルンの形成を意図する。しかし,この計画は戦時統制の強化,外資導入の失敗等によって挫折した。戦後の財閥解体によって日産コンツェルンは崩壊したが,その傘下企業には日立製作所,日産自動車をはじめ巨大企業に成長したものが多い。実業家,政治家。山口・萩の醸造業者久原庄三郎の四男に生まれる。藤田組の創設者藤田伝三郎は父庄三郎の実弟。慶応義塾卒業。森村組を経て藤田組に入り,小坂鉱山の再建にあたる。